あなたは光になってます

〝 あなたは光になってます 〟   エフェソ 5:6~14

聖句「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(5:8)

1.《光の子》 教会附属幼稚園・保育園には「光」を園名にしている所が数多くあります。「光の子」というメッセージは、「恵み」「小羊」に比べると、教会側と家族側の間の乖離はありません。どの親御さんにとっても、我が子は光のような輝かしい存在です。しかし、成長と共に、その光が翳って行くように感じるのです。本当は、私たちが光を見ようとしていないからではないでしょうか。

2.《照らす》 幼い我が子は光そのものです。しかし、どの子も光輝いているのです。私たちが自分の子の輝く瞬間だけを追い求めている限り、その輝きに気付きません。誰もが互いに照らし合っているのです。教会では古来、キリストを恒星に、私たちを惑星に譬えて来ました。私たちは自ら輝くものではなく、御光を反射するのです。照らされた者それ自身もまた、光となるのです。13節の「明らかにする/ファネロオー」も、14節の「照らす/エピファウスコー」(「エピファネア」の類語)も「顕現、顕われ」を意味する語です。その単語の中には「ファノス/松明」があります。闇を明るく照らす灯火です。

⒊ 《光の業》 私たちはキリストの光に照らされて輝いています。自分を輝かせるために空しく光っているのではありません。光ることで誰かを照らすことが出来るのです。私たちは「以前には暗闇でした」が、今も深い闇を抱えているはずです。いつも隅々まで御光に照らされることは出来ません。御光に照らされぬ半面(ダークサイド)が常に生じてしまうのです。しかし、そんな陽光の当たらない暗黒面にも、無数の星が輝いているのです。私たちも、その星の1つです。私たちは独りでは「光の子」には成れません。闇を抱える一人であるとしても、私たちは互いに照らし合う時「光の子ら」に成るのです。
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# by tuberosa-angel | 2017-10-10 12:48 | 教会週報より転載

ほんとうに生きている道

   〝 ほんとうに生きている道 〟    ヨハネ 14:1~14

聖句「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(14:6)

1.《道を尋ねる》 私は方向音痴なので、知らない所に行く時には、前日に入念な準備をします。その癖、迷った時に素直に道を尋ねることをしませんでした。道に迷う男性が他人に道を尋ねないのは、自分が無能だと思われることを恐れているからだという研究結果があります。英国の保険会社の調査によると、迷った男性が誰にも道を訊かずに、当ても無く自動車を走らせる距離は、年平均444キロに達するそうです。それこそ「迷走」ですね。

2.《脱システム》 英国の探検家、トリスタン・グーリーによると、女性に比べて男性が道を尋ねない理由は、自分たちが作ったシステム(方位、地図)に固執していて、機能しなくなっても拘泥しているからだそうです。その点、女性の方がシステムから自由で、目的のためには、利用可能な手段を全て駆使することが出来るのです。勿論、性差による分類は相対的なものです。性差に関係なく、今や私たちはシステムに雁字搦めにされて、身動きが取れなくなっているのです。システムそのものが悪いとは言いません。しかし、システムが機能しなくなった時に、その拘りを離れて、謙虚に道を尋ねる必要があると思います。

⒊《踏まれる命》 教会は道を尋ねる場所、また問われる場所でもあります。ペトロもトマスも、イエスさまに「主よ、どこへ行かれるのですか」と尋ねています。それに対して、主は「私は道である」と答えられます。福岡のバプテスト教会の牧師(幼稚園長)が、園児から「じゃあ、イエスさま踏まれちゃうんだね」と反応された衝撃を書いて居られました。遠藤周作の小説『沈黙』のクライマックスで、踏絵に足を掛けたロドリゴに「踏むがいい」と囁く主の御声を思い出します。それは「棄教」ではありません。私の足がキリストを踏み付けにしている、その認識から始まる信仰もあるのではないでしょうか。 





 
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# by tuberosa-angel | 2017-10-03 14:08 | 教会週報より転載

願えば与えられるのか

〝 願えば与えられるのか 〟     ヤコブ 1:2~8

聖句「…知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなく咎め立てしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」(1:5)

1.《女心と秋の空?》 日本列島が移動性高気圧に覆われる秋は、空気が澄み渡り、上空の雲まで見える反面、お天気が変わり易くもあります。それを女性の移り気に掛けて「女心と秋の空」と言いますが、この表現が生まれたのは大正デモクラシー以後です。封建時代には、女性の意思表示、人格や権利は認められていなかったので、むしろ「男心と秋の空」と言われていたのです。色恋沙汰における男の身勝手ぶりを揶揄する表現だったのです。

2.《引き裂かれた魂》 6節に「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています」とあります。迫害、病気、貧困などの試練に遭う時、私たちの心も揺れ動きます。そこで信仰が試され、「忍耐/逃げ出さずに留まること」が生ずるとされています。試練に遭えば「海の波」のように揺れ動くのは、信者も未信者も同じ。洗礼を受けた信徒も動揺し疑うのです。この疑う者が信ずる者へと変えられて行く、そのプロセスを信仰と言います。祈り続ける中で、神に向き合い、「我が心定まれり」と成るのです。8節の「心が定まらず」は「二心の者」と訳されますが、私なら「魂が引き裂かれて」と訳します。

3.《神のプレゼント》 降り掛かる試練に対して「逃げ出さずに留まる」力を、「知恵/ソフィア」と言います。頭の良いことではなく、人生や歴史を神の御計画の中で見通すことの出来る聖霊の賜物です。つまり、私たちの思いが及ばぬ程の、高くて大きな神の御思い(イザヤ書55章8~13節)に思いを馳せて、触れること、永遠を思う心(コヘレトの言葉3章11節)です。それは、私たちが誰かのことを思い遣るのに似ています。その人の本当の心は窺い知れませんが、その人に心を向け続けていれば、その心に達する時が来るのです。願うならば、神は、私たちの想像も出来ないプレゼントを与えて下さいます。 
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# by tuberosa-angel | 2017-09-26 13:02 | 教会週報より転載

大切なあなたに

〝 大切なあなたに 〟    イザヤ 43:1~7

聖句「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」(43:4)

1.《何度も同じ話》 さだまさし作詞作曲の「秋桜(コスモス)」の一節に「何度も同じ話くりかえす/ひとり言みたいに小さな声で」とあります。同じ話を繰り返すのは高齢者の特徴です。私たちは「また同じ話!」と叱ったり、認知症の記銘力障害と混同したりします。しかし、人生の秋から冬へと向かう老年期の人間は過去を顧みることで、自らの人生の意味と価値と再確認して、そこに安堵と励ましとを見出しているのです。これを吟味と言います。

2.《尊厳と栄光と》 「協会訳」や「新改訳」は「尊い」と漢字を当てています。「貴族の貴さ」ではなくて「尊厳の尊さ」です。この文字は手に酒樽を抱えて、神仏に奉げる姿勢を意味します。本来、神仏に対して用いるべき文字なのです。しかし、聖書では、人間は「神の似姿」に造られ、「神は、その独り子をお与えになった程に」世の人を愛されたと言います。それが人間の尊厳なのです。「尊い/ニケバド」は「重んじられる」というヘブル語で、「カーボード/神の栄光」と同根です。「栄光」は神の臨在を示します。神にも等しい尊厳と、臨在の栄光を、あなたに与えられたのです。それが神の愛なのです。

⒊《ケースワーク》 お題目のように「人間の尊厳」が唱えられますが、それは自明でも普遍でもないのです。障碍者や高齢者に対する虐待や虐殺事件が起こる背景には、恐らく「尊厳」の形骸化があります。心が入っていないのです。米国の社会福祉学者、バイステックが「ケースワーク」という語を造りました。相談者に決してレッテル貼りをせず、その人固有の尊厳に、どこまでも向き合って行くのです。彼はイエズス会の司祭でした。「人間の尊厳」という価値観は、造り主が我らに与えたという聖書の信仰が原点です。自分の存在意義を見失った人にも「あなたは大切」と言って下さるのが、私たちの神さまです。
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# by tuberosa-angel | 2017-09-20 08:31 | 教会週報より転載

健康な人の病気

〝 健康な人の病気 〟      ルカ 5:27~32

聖句「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、…罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(5:31,32)

1.《病気で長生き?》 私が糖尿病という診断を受けた後、旧友から「最近は『無病息災』ではなく『一病息災』と言うのだ」と慰められました。かつては「健康長寿」が祈願されました。健康が長寿の前提だったのですが、最近では、持病を患いながらも長命の人も大勢いらっしゃいます。健康と長寿とにズレが生じています。誰にとっても健康の維持が最大の関心事となっているのです。

2.《スピリチュアル》 「世界保健機構/WHO」の「健康の定義」は「病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも精神的にも、そして社会的にも、全てが満たされた状態にあること」です。フィジカル、メンタル、ソーシャルのバランスが取れていることが大切なのです。心身ともに健康でも社会の中で孤立していたら健康ではありません。1998年に、この定義に「スピリチュアル/霊的」を加えるように提案されました。ホスピスの現場では、終末期の患者の実存的な問い掛けを「スピリチュアル・ペイン/霊的な苦しみ」と言います。それが受け止められる環境を「スピリチュアリティ/霊性」と呼ぶのです。

⒊《メタグノーシス》 病気と健康とが逆転するダイナミックな逆説を、イエスさまは語られています。イエスさまが盲人を癒したことに難癖を付ける人々に、主は「今あなたがたが『見える』と言い張るところに罪がある」と反論されました。病気や障碍を抱えているだけで、罪業の因果とされ、社会から排除されるような時代、やはり罪人として蔑まれていた徴税人、霊的、宗教的に差別され、病的な状態に捨て置かれた人を主は招かれました。「悔い改め/メタノイア」は「思考転換、発想の展開」です。「メタグノーシス」は、即ち、人間の知恵を超える神の知恵に触れることにあります。本当の健康とは何でしょう。
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# by tuberosa-angel | 2017-09-13 13:42 | 教会週報より転載

人を見る目、神を見る目

〝 人を見る目、神を見る目 〟   ヘブライ 11:23~31

聖句「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。」(11:27)

1.《面接官の躊躇》 日経新聞電子版に、面接官もビックリの最近の就活生という座談会がありました。当世学生気質に対する愚痴や文句が殆どでしたが、その中に「個性的過ぎて不採用にしてしまったけれども、大物を釣り落としたのではないか」と発言した面接官がいました。その躊躇いの中に、成功も失敗も積み重ねて経験した人にだけ生まれる謙虚さを感じました。

2.《目を向ける先》 誰も「人を見る目」等は持ち合わせてはいないのです。プロのスカウトの成功話も夥しい苦い失敗の上にあります。事業で成功続きのように見える人も、人生では失敗しているかも知れません。家庭が崩壊したり、人格が破綻している場合が多いのです。私たちには、自分が明日どう成るかも分からないのです。況して「人を見る目」等ありません。「箴言」は「目先の利益を追求した結果、欠乏する」「悪い目」(28:22)、「貧しい弱い人を助けて、神に祝福される」「善い目」(22:9)と説き、イエスさまも「体の灯は目」と仰います。何に目を向けているのか、それが問われているのです。

3.《神を見続ける》 モーセは王宮で育てられますが、同胞が虐待される現実を見てしまったことで大きく人生を変えられます。但し、現実を見るだけでは、そこに怨みと憎しみしか生まれません。モーセはエジプト人を殺しただけでした。社会の現実を見る時、私たちもまた、絶望と無力感に囚われます。だからこそ、私たちは神に目を向けなければなりません。「耐え忍ぶ」は「不撓不屈」。「弛まず見詰め続ける」ことです。忍耐とは持続力です。毎日の暮らし、栄養、扶養、そこから耐久力が生まれるのです。見ることの出来ない御方を、今現に見ているようにして耐え忍ぶ、それこそが神を礼拝する心です。
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# by tuberosa-angel | 2017-09-05 13:01 | 教会週報より転載

混沌から始まる物語

〝 混沌から始まる物語 〟     創世記 1:1~19

聖句「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』 こうして、光があった。」(1:2,3)

1.《ワンタン》 ワンタンの起源は華北料理の「餛飩/フントゥン」です。遣唐使の上陸した蘇州では「ウンドン」、目的地の長安では「ホエトエ」と発音しました。「うどん」「ほうとう」です。「餛飩」は「渾沌、混沌/フンドゥン」に通じます。中国の創造神話では、元始天尊が原初の混沌から天地を創造したとされています。しかも、その記念日はクリスマスと同じく冬至なのです。

2.《空虚混沌》 かつては「地は形なく、むなしく」と訳されていました。「漢訳聖書」の「地乃虚曠/地は即ち虚ろで曠しく」から来ているのでしょう。本来は「形の有る無し」は示唆されていません。ギリシア語「七十人訳」の「目に見えず、形が整っていない」から「形なく」が定番になったのです。しかしながら「ヘブル語聖書」の「トーフー・ワボーフー」は「空虚、虚無」という語の繰り返しです。「曖昧模糊」のように同語反復の熟語なのです。意外にも漢訳「和合本」の言う「地是空虚混沌」の「空虚混沌」に近いのです。「エレミヤ書」4章でも、神の秩序の崩壊が「大地は混沌とし」と預言されています。

⒊《命の在処》 メンセンディーク宣教師が仙台青年学生センターの主事として、津波の被災地で仕分けのボランティアをしていた時、学生の「なぜ、神の物語は『混沌』で始まるのか?」との問い掛けが思い出されたそうです。「天地創造」は「神の御言葉による御業」と言われますが、「命令」ではなく「呼び掛け、語り掛け」だったのでは無いでしょうか。「光あれ」は「光であれ」と訳すことも出来るのです。認知心理学者の下條信輔の『まなざしの誕生』には「心を持つ者として扱われることによって、心は発生し成長する」とありました。神さまが語り掛けられた時、そこに「命」が生まれたのでは無いでしょうか。
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# by tuberosa-angel | 2017-08-29 15:00 | 教会週報より転載

負けるが勝ち

〝 負けるが勝ち 〟      ヨハネ 16:25~33

聖句「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(16:33)

1.《競争原理》 私たちは「競争社会」に生きています。英語の「コンペティション」を「競争」と訳したのは福澤諭吉だそうですが、スポーツやクラシック音楽の世界の熾烈な上位争いこそ「コンペ」の代表です。勝つために手段を選ばぬ姿勢はドーピングなど不正の温床です。実に「競争原理」は虚構でしかなく、世界に災厄をもたらし、社会を歪め、人間の魂を責め苛んでいるのです。

2.《淘汰圧力》 身の周りに「競争原理」の信奉者は大勢います。口を揃えて「弱肉強食こそが自然の摂理」と言いますが、強者が生き残るのではなく、環境に適応したものが生き残るのです。戦争指導者たちは「自存自衛の戦い」を主張し、最前線に立たされる兵士たちも、生き残りを賭けて敵兵を殺さねばなりません。企業や商店も生き残りを賭けて競争しています。教会ですらも「伝道」「宣教」を優先する余りに、信者に「淘汰圧力」を掛けて、意識的に「競争原理」を採り入れる場合があります。その方が効率よく組織は機能するのです。しかし、それが本当の教会でしょうか。イエスさまは疑義を呈されます。

⒊ 《勝利宣言》 イエスさまは「私は既に世に勝っている」と仰いました。主は「この世の中で勝利」したのではなく、「競争原理」が支配する「この世に勝利」されたのです。だからこそ「イエスの名によって祈れ」と言われているのです。私たちも自身の成功や勝利を祈らないでは居られません。しかし、永遠に勝ち続ける人間も団体も、国家も民族も存在しません。敗北と挫折と死の中に打ち沈む日が必ず来るのです。しかし、イエスさまは勝者敗者の別なく、「この世に勝利」された主です。「勇気を出しなさい」は「タルソス/冒険心、確信」です。未だ見ぬ世界を目指すのが冒険、見ずして信ずるのが確信です。 
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# by tuberosa-angel | 2017-08-08 16:34 | 教会週報より転載

網と舟と父親を残して

〝 網と舟と父親を残して 〟    マタイ 4:18~22

聖句「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」(4:19,20)

1.《付いて来るかい》 町内会の夏祭りでは露天商の夜店が立ち並びます。小学校の低学年の頃、日暮れ前から会場で遊んでいた私は、たこ焼きの屋台の準備を手伝ったことがあります。ご褒美に最初に焼けた物を貰ったのですが、おじさんから「一緒に来るかい?」と言われたのでした。以後しばらく、各地を移動しながら露天商を営む自分の姿を妄想するのがマイブームでした。

2.《袖の触れ合うも》 イエスさまが「4人の漁師を弟子にする」場面ですが、如何にも行き当たりばったりに思われます。投網漁をしているペトロとアンデレの兄弟に唐突に「私に付いて来なさい」では付いて行けません。普通に考えれば先ず「豊漁か?」「景気はどうか?」と世間話から始まり、彼らの抱える生活苦や将来の不安が開陳され、主が福音を説かれた後に、この招きの言葉があるべしです。幾ら何でも出会い頭に「私に付いて来なさい」では「ハーメルンの笛吹き男」に操られてる子どもたちと同じです。その点「ルカによる福音書」は挿話の順番を入れ替えることで、誰もが納得できるように再構成しています。


⒊ 《有無を言わさず》 改めて「マタイによる福音書」に目を転じると、ドラマ展開のプロセスに何の関心も抱いていません。イエスさまが「さあ来い、俺の後ろに」と言い、弟子たちが付いて行ったという暴力的展開です。喧嘩上等のヤンキーのノリなのです。ヤコブとヨハネの兄弟は、網だけではなく、持ち舟も父親も船子も捨て去ります。非常識とも不人情とも思われますが、信仰の決断を迫られる時には、常識や人情を捨てても良いのです。仕事や生活(網と舟)、家族(父親)を何よりも大切にしていますが、それは永遠でも究極でも無いのです。いつか、主の召命に応えてお別れする時が来るのです。 
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# by tuberosa-angel | 2017-08-04 09:05 | 教会週報より転載

天使と野獣

  〝 天使と野獣 〟      マルコ 1:12~13

聖句「イエスは40日間そこに留まり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」(1:13)

1.《美女と野獣》 2017年上半期最大のヒット映画は、ディズニーの実写版『美女と野獣』です。この物語には、愛と信頼の人間関係があって初めて、人間性が回復されるというテーマがあります。さて、野獣の正体ですが、アニメ版で野獣のキャラクターをデザインしたグレン・キーンは「神がこの世に創造された生き物の中から、様々な動物を合成して作り出した」と発言しています。

2.《悪魔と動物》 イエスさまがサタンと対決する「荒れ野の誘惑」の場面ですが、悪魔との問答がありません。その代わりに、イエスさまと共に「野獣」がいるのです。詳しい描写が無いまま、唐突に「野獣」が登場するので、私も長い間この「野獣」を「悪魔」自身か「サタン」の使い魔のように錯覚していたくらいです。「野獣」と訳されている「テーリオン」は「テール」の指小語です。「テール」は「猛獣、凶暴」ですから、間違いなく獰猛な肉食獣です。しかし、イエスさまと一緒にいると、熊も小熊のように、狼も赤ちゃん狼のように、ライオンも赤ちゃんライオンのように成っているのです。

《天使の奉仕》 主がサタンから苦難を受けられた時、野獣たちが共にいたのです。その光景はキプリングの『ジャングル・ブック』、手塚治虫の『ジャングル大帝』、釈迦の「涅槃図」と同じです。「イザヤ書」11章のメシア預言の成就なのですが、私たちが悲嘆する時、ペットの動物が無言のまま見守っていたことも思い出されます。天使たちが「仕えていた」とは、主に食事を供えていたという意味です。私たちの奉仕は、結局、この2つに尽きるのです、即ち「荒れ野」に置かれた人に食事を運び続けるか、それとも共にいて見守るか。しかも、本当の奉仕は私たち自身の人間性を回復することでもあるのです。 
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# by tuberosa-angel | 2017-07-26 10:28 | 教会週報より転載