負けるが勝ち

〝 負けるが勝ち 〟      ヨハネ 16:25~33

聖句「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(16:33)

1.《競争原理》 私たちは「競争社会」に生きています。英語の「コンペティション」を「競争」と訳したのは福澤諭吉だそうですが、スポーツやクラシック音楽の世界の熾烈な上位争いこそ「コンペ」の代表です。勝つために手段を選ばぬ姿勢はドーピングなど不正の温床です。実に「競争原理」は虚構でしかなく、世界に災厄をもたらし、社会を歪め、人間の魂を責め苛んでいるのです。

2.《淘汰圧力》 身の周りに「競争原理」の信奉者は大勢います。口を揃えて「弱肉強食こそが自然の摂理」と言いますが、強者が生き残るのではなく、環境に適応したものが生き残るのです。戦争指導者たちは「自存自衛の戦い」を主張し、最前線に立たされる兵士たちも、生き残りを賭けて敵兵を殺さねばなりません。企業や商店も生き残りを賭けて競争しています。教会ですらも「伝道」「宣教」を優先する余りに、信者に「淘汰圧力」を掛けて、意識的に「競争原理」を採り入れる場合があります。その方が効率よく組織は機能するのです。しかし、それが本当の教会でしょうか。イエスさまは疑義を呈されます。

⒊ 《勝利宣言》 イエスさまは「私は既に世に勝っている」と仰いました。主は「この世の中で勝利」したのではなく、「競争原理」が支配する「この世に勝利」されたのです。だからこそ「イエスの名によって祈れ」と言われているのです。私たちも自身の成功や勝利を祈らないでは居られません。しかし、永遠に勝ち続ける人間も団体も、国家も民族も存在しません。敗北と挫折と死の中に打ち沈む日が必ず来るのです。しかし、イエスさまは勝者敗者の別なく、「この世に勝利」された主です。「勇気を出しなさい」は「タルソス/冒険心、確信」です。未だ見ぬ世界を目指すのが冒険、見ずして信ずるのが確信です。 
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# by tuberosa-angel | 2017-08-08 16:34 | 教会週報より転載

網と舟と父親を残して

〝 網と舟と父親を残して 〟    マタイ 4:18~22

聖句「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」(4:19,20)

1.《付いて来るかい》 町内会の夏祭りでは露天商の夜店が立ち並びます。小学校の低学年の頃、日暮れ前から会場で遊んでいた私は、たこ焼きの屋台の準備を手伝ったことがあります。ご褒美に最初に焼けた物を貰ったのですが、おじさんから「一緒に来るかい?」と言われたのでした。以後しばらく、各地を移動しながら露天商を営む自分の姿を妄想するのがマイブームでした。

2.《袖の触れ合うも》 イエスさまが「4人の漁師を弟子にする」場面ですが、如何にも行き当たりばったりに思われます。投網漁をしているペトロとアンデレの兄弟に唐突に「私に付いて来なさい」では付いて行けません。普通に考えれば先ず「豊漁か?」「景気はどうか?」と世間話から始まり、彼らの抱える生活苦や将来の不安が開陳され、主が福音を説かれた後に、この招きの言葉があるべしです。幾ら何でも出会い頭に「私に付いて来なさい」では「ハーメルンの笛吹き男」に操られてる子どもたちと同じです。その点「ルカによる福音書」は挿話の順番を入れ替えることで、誰もが納得できるように再構成しています。


⒊ 《有無を言わさず》 改めて「マタイによる福音書」に目を転じると、ドラマ展開のプロセスに何の関心も抱いていません。イエスさまが「さあ来い、俺の後ろに」と言い、弟子たちが付いて行ったという暴力的展開です。喧嘩上等のヤンキーのノリなのです。ヤコブとヨハネの兄弟は、網だけではなく、持ち舟も父親も船子も捨て去ります。非常識とも不人情とも思われますが、信仰の決断を迫られる時には、常識や人情を捨てても良いのです。仕事や生活(網と舟)、家族(父親)を何よりも大切にしていますが、それは永遠でも究極でも無いのです。いつか、主の召命に応えてお別れする時が来るのです。 
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# by tuberosa-angel | 2017-08-04 09:05 | 教会週報より転載

天使と野獣

  〝 天使と野獣 〟      マルコ 1:12~13

聖句「イエスは40日間そこに留まり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」(1:13)

1.《美女と野獣》 2017年上半期最大のヒット映画は、ディズニーの実写版『美女と野獣』です。この物語には、愛と信頼の人間関係があって初めて、人間性が回復されるというテーマがあります。さて、野獣の正体ですが、アニメ版で野獣のキャラクターをデザインしたグレン・キーンは「神がこの世に創造された生き物の中から、様々な動物を合成して作り出した」と発言しています。

2.《悪魔と動物》 イエスさまがサタンと対決する「荒れ野の誘惑」の場面ですが、悪魔との問答がありません。その代わりに、イエスさまと共に「野獣」がいるのです。詳しい描写が無いまま、唐突に「野獣」が登場するので、私も長い間この「野獣」を「悪魔」自身か「サタン」の使い魔のように錯覚していたくらいです。「野獣」と訳されている「テーリオン」は「テール」の指小語です。「テール」は「猛獣、凶暴」ですから、間違いなく獰猛な肉食獣です。しかし、イエスさまと一緒にいると、熊も小熊のように、狼も赤ちゃん狼のように、ライオンも赤ちゃんライオンのように成っているのです。

《天使の奉仕》 主がサタンから苦難を受けられた時、野獣たちが共にいたのです。その光景はキプリングの『ジャングル・ブック』、手塚治虫の『ジャングル大帝』、釈迦の「涅槃図」と同じです。「イザヤ書」11章のメシア預言の成就なのですが、私たちが悲嘆する時、ペットの動物が無言のまま見守っていたことも思い出されます。天使たちが「仕えていた」とは、主に食事を供えていたという意味です。私たちの奉仕は、結局、この2つに尽きるのです、即ち「荒れ野」に置かれた人に食事を運び続けるか、それとも共にいて見守るか。しかも、本当の奉仕は私たち自身の人間性を回復することでもあるのです。 
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# by tuberosa-angel | 2017-07-26 10:28 | 教会週報より転載

主の言葉は響き渡る

〝 主の言葉は響き渡る 〟   Ⅰテサロニケ 1:2~10

聖句「主の言葉があなたがたの所から出て、マケドニア州とアカイア州に響き渡った…ので、何も付け加えて言う必要はないほどです。」(1:8)

1.《ノイズ》 礼拝説教が佳境に入った時に、折り悪く、教会の側をちり紙交換車がアナウンスをしながら通り、苦笑せざるを得ないことがありました。選挙カー、右翼街宣車、ちり紙交換、移動販売車など、英語では「sound trucks/音響トラック車」と言いますが、日本独自の文化です。「騒音」の対語は「清音、楽音」と言いますが、騒音か否かは、個々人の快不快に左右されます。

2.《コール》 美しい音楽も歌声も「聞きたくない」人にとっては騒音です。世間でも「子どもの声は騒音か、それとも希望の響きか」は大きなテーマと成っています。テサロニケの信徒たちの「信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐」はマケドニアとアカイアに「響き渡っている」とパウロは言います。「主の言葉は響き渡る」という言い回しは「詩編」19編2~5節から採られています。「響き」はヘブル語で「コール」、ラッパの響きも雷鳴の轟きも、声や音色も「コール」です。サイモン&ガーファンクルのヒット曲「サウンド・オブ・サイレンス」も「その声も聞こえないのに/その響きは全地に普く」から来ているのです。

⒊《神の声》 何万人もの人々が暮らしている都会生活では、言葉も歌も大量に消費されて行きます。話していても、互いの気持ちが通じ合うことは思いの他、少ないのです。喧騒と音響が溢れているのに、意味のある音が受け止められません。しかし、昔の人は空を仰ぐだけで神の御言葉を思ったのです。パウロの「あなたがたの信仰が至る所で伝えられている」は、メディアの無い時代、大袈裟かも知れません。しかし、教会の人たちは覚えて祈っていた。「知る人ぞ知る」のです。また、神さまさえ御存知ならば、誰からも知られなくても良いのです。何しろ、信仰とは「神のみぞ知るセカイ」なのですから。







  
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# by tuberosa-angel | 2017-07-19 11:13 | 教会週報より転載

神の国は、飲み食いではなく

〝 神の国は、飲み食いではなく 〟  ローマ 14:13~23

聖句「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(14:17)

1.《ハラール》 イスラム圏から来日する観光客の増加と共に、イスラム法に照らして食べても良いと認定された食材の専門店、ハラール料理を提供する店が出て来ました。その認証を与える協会も含めて「ハラルビジネス」と言います。しかし、ハラールも実際には、国と民族と文化による温度差、意識の個人差もあり、食物タブーを厳密に守っていられない状況もあるのです。

2.《棲み分け》 「ローマの信徒」たちは「ヘレニスト」(ギリシア語を母語ととして外国で暮らすユダヤ人)に「異邦人」も加わる混成集団でした。文化的、宗教的背景も異なります。しかし、そのような人たちが共に集まって礼拝を守っていたところに活気が溢れていたのです。米国キリスト教史を学ぶと、移民は宗教集団であり、各民族、各宗派ごとに棲み分けがあることに気付きます。しかしながら、パウロの時代のキリスト者の集まりには、未だ棲み分けはなかったのです。当然そこに衝突も生まれます。にもかかわらず、それでも礼拝を共にして行ったところに、パウロの果たした役割があったのです。

⒊ 《愛に従う》 当時の礼拝は、食事を共にしながら祈り、賛美し、キリストを記念したのです。食事が各自持ち寄りだったのか、給食だったのか、会場の主催者提供だったのか定かではありませんが、戒律を守る人の前に禁忌とされた食材を置くのは、如何にも愛がありません。一種のハラスメントです。それ故、パウロは「神の国は飲食にあらず」と叱っているのです。ところで、イエスさまは反対に「神の国は大宴会」と仰っています。主の慈悲に限りが無いことに気付く日が来ます。その日には、私たちが選んだものも拒んだものも、全て与えられることでしょう(映画『バベットの晩餐会』より)。 







   
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# by tuberosa-angel | 2017-07-11 14:28 | 教会週報より転載

ここに私がいます

〝 ここに私がいます 〟     イザヤ 6:1~8

聖句「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。…わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください』」(6:8)

1.《セラフィム》 かつてカトリックのミサでは「サンクトゥス/聖なるかな」の「三聖唱」の合図に、鈴を鳴らして注意喚起したそうです。礼拝の中心だったのです。聖書の中では「セラフィム」という天上の生き物が歌います。5世紀のシリアの神学者、偽ディオニシオス・アレオパギタによれば、全9段階の「天使の位階」の最上位にあって主に仕える天使とされています。

2.《声を聴く心》 「イザヤの召命」は、紀元前739年とされています。預言者を待ち受けるのは、アッシリア帝国の勃興による未曾有の国難です。モーセと同じく、イザヤも主の召命を辞退しようとします。しかし、熾天使セラフィムによって清められて、御前に召し出されるのです。昨今「得意を仕事に」のキャンペーンが盛んですが、預言者も使徒も得意だから成っていません。むしろ、自分の得手不得手、好き嫌いを超えたところで、神に召されることを「召命」と言います。この「召命」という語は、ギリシア語でもラテン語でも「天職、職業」の語源なのです。大切なのは、神の呼びかけを聴き取るか否かです。

⒊《自分の仕事》 御声を聴いたイザヤは「ここにいます」と応えます。「ああ」「見よ」という感嘆語に通じる語です。「お遣わし下さい」はギリシア語では「使徒」に通じます。躊躇し不安を抱きながらも引き受けたのです。好きな事だけやっているのは子どもです。哲学者の内田樹は、「自分の仕事」ではない「みんなの仕事」を、敢えて「自分の仕事」として引き受けるのが、おとなの生き方だと書いています(『街場の共同体論』)。旧約の預言者たち、新約の使徒たち、そして誰よりイエスさま(十字架!)こそは、そのようにして自分の人生に、神の御旨を引き受けて行った人たちだったのではないでしょうか。 
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# by tuberosa-angel | 2017-07-04 13:40 | 教会週報より転載

すべて借り物

〝 すべて借り物 〟     Ⅰコリント 4:6~13

聖句「あなたを他の者たちよりも、優れた者としたのは、誰です。一体あなたの持っているもので、頂かなかったものがあるでしょうか。」(4:7)

1.《牧師就任式》 各地の教会で新任牧師の就任式が行なわれる季節です。私が祝電に書き添えるメッセージに「比較は友人を敵となす」があります。紀元前3世紀の劇作家、フィレモンの言葉です。前任者と比べて論評されるのは不愉快であるばかりか、その人固有の人生や人格を否定して、物象化することです。その人が取り替えの利かない人であると感じる、それが愛と信頼です。

2.《地道な働き》 アポロは、パウロよりも先にエフェソやコリントで伝道活動に当たった人物です。特にコリントでは大きな働きをしたらしく、熱烈な支持者がいたようです。後から来たパウロは、雄弁家として知られるアポロと比較されて、かなりの屈辱を味わったようです。家族と同じく、教会もまた、信仰を同じくする者たちの共同体ですから、愛と信頼によって支えられています。そこに比較による相対評価が入ることは、即ち、共同体としての破綻を意味します。また、カリスマ的な存在が去った後、個人崇拝に傾いた在り方を本筋に戻して、始末をするのは、骨の折れる割りに目立たない地味な仕事なのです。

⒊ 《人間の真価》 パウロはコリントの人たちに「人と人とを比べて、高ぶることのないように」と勧告しています。自分は棚に上げて、他人の値踏みをしている時、私たちは高慢に成っているのです。また、私たちは自らを特別な存在だと思いたがる悪い癖があります。しかし、他の人たちより優れた所はなく、あったとしても、それは神さまからの頂き物、貰い物、いずれお返しする借り物に過ぎません。神さまから見たら、私たちは皆「他人の褌(ふんどし)で相撲を取っている」ようなものです。高慢ちきを捨てた時、神さまから一人一人に与えられている、掛け替えの無さ、人間の真価が見えて来るのです。
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# by tuberosa-angel | 2017-06-27 17:05 | 教会週報より転載

愛は朝ごとに新しく

      〝 愛は朝ごとに新しく 〟     哀歌 3:22~33

聖句「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」(3:22,23)

1.《ラメント》 「哀歌」を「ラメント」と呼ぶのはラテン語の題名から来ています。クラシックにもポップスにも「ラメント/哀歌、悲歌」と題された曲があります。「エレジー」とは何が違うのでしょうか。マンガ家の田亀源五郎は「主体における悲しみを歌うのがエレジー、それに対して、客体への悲しみの情感を歌ったのがラメントではないか」と分析しています。

2.《死屍累々》 「哀歌」は5章、5つの詩から構成されていますが、第3章以外は「バビロン捕囚」時代の作品です。その内容もバビロニアに攻め滅ぼされて廃墟と化したエルサレムの情景、それに先立つエルサレム攻囲(籠城)の期間に、餓死した子どもたち、その肉を食べる母親の凄まじい姿、死屍累々たる情景が描かれています。「何故?」という疑問詞で始まりますが、「ああ」「あゝ哀しいかな」とも訳される語です。大きなショックやダメージを受けた時、私たちも「どうして!?」と漏らしますが、納得できる答えが得られると思ってのことではありません。思わず知らずに口を突いて出る呻きなのです。

⒊《エレジー》 大石芳野の写真集『戦争は終わっても終わらない』を思い出しました。直接被害を受けなかった人は忘れてしまうのです。しかし、戦争や犯罪や災害を現在も続く出来事として生きている人もいるのです。どうして「哀歌」第3章だけに「個人の嘆きの歌/エレジー」が挿入されているのか、不思議でした。個人的な苦難の体験を民族的な苦難と結び付け、歴史上の苦難から自分の人生の苦難を見詰め直す作業をしているのです。更には、神の慈しみと憐れみの大きさが、その苦難を包み込んでくれるのです。私たちが「真実」に程遠い人間だとしても、神は「来る朝毎に」愛を「更新」されるのです。
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# by tuberosa-angel | 2017-06-21 11:21 | 教会週報より転載

土に仕えるのが人

〝 土に仕えるのが人 〟    創世記 2:4b~15

聖句「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」(2:15)

1.《大魔神!》 往年の大映の特撮映画に『大魔神』があります。時は下克上の戦国時代、所は丹波国、家老の大館左馬之助は主君に謀反を起こして、国主となりました。左馬之助は砦建設のために領民に過酷な労働を強い、山の武人像を破壊しますが、それが憤怒の形相の大魔神となって暴れます。最後には、娘の自己犠牲的な祈りによって魔神は怒りを鎮め、元の土塊に戻るのです。

2.《ゴーレム》 『大魔神』の元ネタは、戦前の独仏で何度も映画化された『巨人ゴーレム』です。時は17世紀の初め、所はプラハ、神聖ローマ帝国皇帝となったルドルフ2世は、ユダヤ人を迫害しゲットーに閉じ込めます。ユダヤの民は教会の隅にあるゴーレム像に救いを託しますが、像は警察長官によって略奪されて鎖で縛られます。獅子の咆哮を耳にしたラビの妻は、秘密の文字によってゴーレムを起動させます。ゴーレムは牢獄を破壊し、ユダヤ人を解放して、国家権力と戦うのです。虐げられた民のために暴君と戦うのも、ヒロインが鍵を握っているのも、使命を終えると土塊に戻るのも『大魔神』と同じです。

⒊《土と人間》 墓から掘り出される『フランケンシュタイン』も含めて、これらの「人造人間」のモチーフは「創世記」の人間創造からの類推なのです。人間は神によって土から造られ、死んで土に返るのだと教えられているのです。宮崎駿監督の『天空の城ラピュタ』の中で、ヒロインのシータは「土から離れては生きられないのよ!」と叫びます。私たちは「天空の城」に住んでいる訳ではありませんが、土に触れずに生活しています。「土を耕す」は「土に仕える」と訳すべき語です。土を守り、土の世話をし、土から離れないで、いつか土に戻って行くことが、神から私たちに与えられた使命なのです。 









   
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# by tuberosa-angel | 2017-06-13 20:19 | 教会週報より転載

酔ってなんかいません

〝 酔ってなんかいません 〟   使徒言行録 2:1~16

聖句「今は朝の9時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。」(2:15)

1.《霊は神の息吹》 神さまとイエスさまが使徒たちに「約束されたもの」、それが「聖霊」でした。「霊」と言うと、私たちは怪しげなものを連想してしまいがちですが、ギリシア語の「プネウマ」もラテン語の「スピーリトゥス」も第一義は「風」です。聖霊とは神の息吹だったのです。風と同じく目に見えませんが、その響きや存在を魂で感じることが出来るものなのです。

2.《ガリラヤの人》 使徒たちが各地の多言語で福音を証するのを聴いて、人々は「なぜガリラヤの人たちが…」と言って驚きます。外国語なのに変な話です。14の言語が挙げられて、少数言語も大切にされています。お国言葉で直接に伝えたいというのが、神さまの何よりの願いでした。それ故、東北弁(ガリラヤ訛り)を感じ取ったのでしょう。外国語で喋っているのに方言を感じるということは、使徒たちが彼ら自身の言葉、取り繕わない人柄が聴いた人々の心に響いたからです。「聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに」と言っても、「憑霊」されて意識を乗っ取られているのでは無かったということです。

3.《聖霊を満たす》 「新しい葡萄酒に酔っているのだ」と片付けようとする人たちもいました。「新しい葡萄酒/グレウコス」とは「ムスト」、発酵途中の葡萄液です。発酵が進めば、アルコール分が11%の「どぶろく」にも成ります。ペトロは「酔ってなんかいません」と反論しますが、酔っている人に限って「酔っていない」と抗弁するものです。教会が生まれた日から、教会は世間から「酔っているんじゃないか」との謗りを受けていたのです。私たちも、折に触れて自己吟味するべきです。自己陶酔したり、思い込みに取り憑かれたり、自己主張や我欲の虜になってはいないでしょうか。14世紀の神秘主義者、タウラーは「空になった分だけ、私たちを満たす、それが聖霊の働き」と言います。
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# by tuberosa-angel | 2017-06-06 14:08 | 教会週報より転載