飼い葉桶を知っていますか

〝 飼い葉桶を知っていますか 〟   イザヤ 1:2~9

聖句「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない。」(1:3)

1.《降誕セット》 「教会が一番質素なクリスマス」という川柳を作りました。商業施設や一般家庭の方が華やかにクリスマスの装飾をしていて、キリスト教会が一番地味かも知れません。最近では、雛人形、五月人形の感覚で「降誕セット」を飾る所もあります。しかし「降誕セット」はツリーやリースよりも、クリスマスとは何であるかを明示している点、福音的であるかも知れません。

2.《プレゼピオ》 13世紀の修道士、アッシジのフランチェスコが「降誕セット」を考案したとされています。聖書を読めない庶民や子どもが見ても、クリスマスが何であるか理解できるようにしたのです。当初は「活人画」「聖劇」に近いものでしたが、人形を使うようになり、家庭用の小型セットも生産されて普及したのです。その心は真ん中に置かれた「飼い葉桶」にあります。発祥地イタリア語の「プレゼピオ」は、ラテン語の「プレ/の前に」と「セピオー/囲む、取り巻く、守る」に溯ります。それを見詰める時、私たち自身が飼い葉桶を、御子イエスを「取り巻く」巡礼者になる仕掛けなのです。

⒊ 《主を知る時》 イザヤの預言を読むと「しかし、イスラエルは知らず」という所で胸を突かれます。讃美歌の「ああベツレヘムよ」の「ひとみな眠りて知らぬ間にぞ/み子なるキリスト生まれたもう」を思い出します。誰もクリスマスを知らないのです。同じく、世の中には、誰も知らない悲しみや痛み、分かって貰えない苦しみも数多くあります。「夜」は相互交流が断絶し、孤独に悩む時間の象徴です。「同床異夢」です。しかし、クリスマスを知った私たちは、「知ったかぶり」と「知らん振り」を止めて、知ったことを元手にして、改めて生きることを始めたい。その時に「夜」は終わり、夜明けが来るのです。



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# by tuberosa-angel | 2017-12-11 00:31 | 教会週報より転載

光が闇の底まで降りる

〝 光が闇の底まで降りる 〟     ルカ 1:67~80

聖句「この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(1:78,79)

1.《ベネディクトゥス》 キリスト者は、クリスマスに先立ってアドベントを守ります。聖書においても、イエスさまの御降誕に先立って洗礼者ヨハネの誕生物語があるのです。その父親ザカリヤの賛美は、歌い出しのラテン語を採って「ベネディクトゥス/ほめたたえよ」の名で知られ、古くは、埋葬式の灌水と燻香の直前に歌われていました。お目出度い誕生の歌なのに、なぜでしょうか。

2.《死の陰の谷を歩む》 79節「暗黒と死の陰に座している者たち」を陰府に置かれた「死者」と捉えたからです。「スキア/陰」には影法師のような輪郭がありますが、所詮「スコティア/暗黒」の中に置かれているのですから、真っ暗闇なのです。有名な「詩編」23編にも「たとひ我、死の陰の谷を行くとも災ひを恐れじ」と詠まれている「死の影の谷」です。英国の怪奇作家、W・H・ホジソンの短編『失われた子供たちの谷』には、幼い娘を亡くして旅人が、子どもたちの暮らす楽園「光の谷」を求めて彷徨う挿話があります。それによると、驚くべきことに「光の谷」は「死の陰の谷」と隣り合わせに成っているのです。

3. 《クリスマスの極意》 洗礼者ヨハネは、イエスさまに先立って道を備えた人物とされています。洗礼という儀式も、ヨルダン川でヨハネの始めたものです。洗礼/バプテスマは「水に浸す」事ですから「滴礼」を認めず「浸礼」を絶対視する教派もありますが、本来を目指すならば「流水」でなければなりません。レオナルド・ダ・ヴィンチは大地を1匹の魚に、水を空気に、河川や海を血管に譬えました。私たちの身の周りには、数え切れない程の暗闇と陰があります。けれども、「憐れみの光」である主は、どこまでも深く下降して下さいます。谷底で倒れ伏している私たちを照らし、導いて下さるのです。 


 

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# by tuberosa-angel | 2017-12-04 18:24 | 教会週報より転載

神さまの大きな背中

〝 神さまの大きな背中 〟    イザヤ 46:1~4


聖句「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(46:4)


1.《抱っこ》 最近では、街中で赤ちゃんを「おんぶ」している人を見掛けなくなりました。若いパパママはベビーキャリアを装着して抱っこしています。世界でも「おんぶ」する民族は少数派ですが、背中であやしながら、開いた両手で料理や洗濯が出来る凄い文化です。但し、周囲の共同体に対する信頼があることが前提です。「周りは他人」の都市文化では「おんぶ」は難しいのです。


2.《おんぶ》 欧州人に「おんぶ」の習慣はありませんから、聖母子像や降誕の聖画を見ても「抱っこ」です。唯一の例外が、幼いイエスさまを「おんぶ」して川を渡った、聖クリストフォロスの伝説です。それでも絵画を見ると、肩車か立ち乗りに成っています。欧州人に「おんぶ」は分からないのです。キリスト教が欧州に伝えられる以前、つまり、聖書を見ても「背負う」の表現はありますが、それは「赤ん坊を負ぶる」ことではありません。芝居の『屋根の上のヴァイオリン弾き』の「サンライズ・サンセット」の歌詞を見ると、寝た子を抱いてベッドに運ぶ「carryed」を「いつもおんぶしてた」と訳しています。


⒊ 《踏み台》 聖書には「おんぶ」こそありませんが、子どもを抱きかかえて運ぶ「抱っこ」はあります。バビロンの神々の偶像は神輿として人間が担ぎ、家畜に背負わせる物だが、創造主である私は、あなたがたが胎にある時から年老いるまで「抱っこ」すると、主は仰るのです。「私が/アニー」の語が繰り返されて「おんぶに抱っこ」です。但し「甘えっ放し」には為さいません。その時々に「受容の背中」「拒絶の背中」「模範の背中」を示して、私たちの成長を促されるのです。子が「偶像」ではなく、真実を求めて生きるように導くのが大人の責任です。そのためには、自ら踏み台と成ることも厭わないのです。 






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# by tuberosa-angel | 2017-11-21 17:40 | 教会週報より転載

水のこころ

      〝 水のこころ 〟      イザヤ 55:8~11

聖句「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ…」(55:10)

1.《奇跡の人》 岡田惠和が脚本を担当し、「銀杏BOYZ」の峯田和伸と麻生久美子が出演したドラマが昨年放映されました。流されるまま生きて来た万年青年が、盲聾の7歳の娘を抱えて、毎日サバイバルのような生活を送る元ヤンのシングルマザーに恋をして、自分はその娘の「サリヴァン先生になろう」と決意するところから、泣き笑いの奮闘が始まるのでした。

2.《家庭教師》 アン・サリヴァンは「盲聾唖の三重苦」を負ったヘレン・ケラーを教育した家庭教師です。ヘレンは1歳9ヶ月の時、猩紅熱の後遺症で視覚と聴覚を失い、言葉も話せなくなりました。両親は電話の発明者、ベル博士を通じて、パーキンス盲学校を紹介されます。自身もトラコーマによる失明状態の中から立ち上がり、盲学校を首席で卒業したサリヴァンが家庭教師として、ヘレンの家に来ることになったのです。その時、彼女は弱冠20歳でした。こうして赤ちゃん状態に等しかったヘレンに、指文字で言葉を教える懸命の教育が始まりました。芝居や映画では、この二人の格闘が最大の見せ場です。

⒊ 《流れる水》 漸く人間らしさを回復しつつあったヘレンでしたが、両親の下に戻るや、再び動物のように振る舞い始めます。水差しを零したヘレンをサリヴァンが連れ出し、ポンプから流れ出る水に、ヘレンが「水」と叫ぶ場面は感動的です。しかし、これは劇作家ウィリアム・ギブスンの創作です。ヘレンの自叙伝によると、散歩の途中、忍冬の香りに誘われて泉に行った時の出来事だそうです。いずれにせよ、生きた水の流れがヘレンに言葉と魂の目覚めを与えたのは事実です。『奇跡の人』の原題「The Miracle Worker」はサリヴァンのことですが、奇跡を起こした働き手は、天から与えられた水だったのです。 



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# by tuberosa-angel | 2017-11-14 15:07 | 教会週報より転載

死と陰府の鍵を持っている

〝 死と陰府の鍵を持っている 〟   黙示録 1:9~20

聖句「わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」(1:17,18)

1.《玄関の鍵》 とある婦人から問い合わせがありました。「バザー会場に鍵を落としたかも知れない」と仰るのです。外出から戻って、玄関の扉を開けようとした時に、鍵が見付からなくて慌てた経験は、誰にでもあるでしょう。昔は外から閉める自宅の鍵は存在せず、夜間に内側から閂をするだけでした。自宅には必ず誰かしら家人が居り、帰宅すれば「お帰りなさい」と迎えてくれたのでした。

2.《聖書の鍵》 宝物庫や蔵のために鍵はあり、それを持っているのは王と祭司、豪商でした。つまり、特別な力と権威の象徴だったのです。魔道書『ソロモンの鍵』は、ソロモン王が72匹の悪魔を使役したという伝説から生まれた魔法の解説書です。「ダビデの鍵」(3章7節)と言ったら、「ダビデの子」「ダビデの孫生」「ダビデの若枝」と同じく、メシアの力と全権を意味しました。ディオクレティアヌス帝の迫害時、エーゲ海のパトモス島に流刑され抑留されたヨハネに、キリストの幻が顕われ、「死と陰府の鍵を持っている」と仰るのです。

3.《人生の鍵》 「最初の者/プロートス」「最後の者/エスカトス」に加えて「生きている者」でもあります。人間の原型と最終形態、そして刻々と変化する全ての「命/ゾーエー」でもあるのです。生も死も超越した御方である故に「死んだが、生きている」ではなく「死んで、尚生きている」と読みたいのです。「陰府」は「冥界の王ハデス」、「死」は「死神タナトス」です。今や命の主であるキリストが「冥王」や「死神」に取って代わられたのです。いずれ私たちも臨終の時を迎えます。その時、決して独りぼっちではないのです。イエスさまが傍らに居られ、永遠の命へと導いて示して下さるのです。 

 

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# by tuberosa-angel | 2017-11-07 18:26 | 教会週報より転載

門前の小僧も血迷う

〝 門前の小僧も血迷う 〟    マタイ 7:13~14

聖句「狭い門から入りなさい。…命に通じる門は何と狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」(7:13,14)

1.《10月31日》 ハロウィンの起源はケルト文化圏の収穫感謝祭です。この日が大晦日、1年の暮れで、死霊が自宅に戻り、妖精や魔物が活動する夜でした。それで魔除けの仮面を被り篝火を焚いたのです。紀元8世紀、この風習に目を付けた、ローマ教会は「諸聖人の日」の前夜祭として聖遺物を展示しました。この御開帳に、人々は群れを成して聖人の霊験に与ろうとしたのです。

2.《教会の扉》 サンピエトロ大聖堂の再建資金を集めるため、ローマ教会は免罪符を乱発しました。1517年、ハロウィンの聖遺物御開帳に発売日に、ルターは教会の扉に「九十五箇条提題」を貼り付け、「天国は金で売り買いするのは間違っている。信仰によって初めて天国に行けるのだ」と主張したのです。当時、公開討論を呼び掛ける場合に、教会の扉に公示する慣例でしたが、教会の扉が「天国の門」の象徴であったことも忘れてはなりません。「これさえあれば天国に行ける」と喧伝して憚らない、免罪符に対する反論なのですから「教会の門」なのです。因みに「門/ピュレー」には「扉、戸口」の意味もあります。

⒊ 《恵み発見》 三浦綾子の小説『千利休とその妻たち』では、利休が新しい茶室を考案する際に、後添えのおりき(宗恩)が「狭き門より入れ」の聖句を伝えて、狭くて低い「にじり口」が出来たという設定です。宗教改革によって奪われた失地回復のために、イエズス会が東洋に宣教師を派遣し、キリシタンの教えが侘び茶を完成させる、全て「狭き門」で繋がっていたら愉快です。「門」が「狭く細い」理由は「見出す者が少ない」からです。命も何かもかも賜物であることを発見する人は少ないのです。もしも門の狭さに気付いたならば、誰でも身を屈めて入っておいでと、イエスさまは仰っているのです。



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# by tuberosa-angel | 2017-11-01 15:01 | 教会週報より転載

何か善いことを

〝 何か善いことを 〟      ルカ 16:1~13

聖句「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金が無くなった時、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」(16:9)

1.《福音書の悪人》 イエスさまの譬え話に登場するのは、善人ばかりではありません。押し込み強盗、追い剥ぎ、毒麦を蒔く敵、葡萄園の主人の息子を殺す農夫、大酒を飲んで仲間を殴る下僕、だめんずの代表、放蕩息子などが次々と出て来て、さながら「悪党列伝」です。これは当時の世相の反映であり、私たち自身の中にいる悪意や悪念でもあるのです。それ故、説得力があるのです。

2.《不正な管理人》 「管理人」は「家令/家の世話をする人」です。主人の財産管理を任されているのを良いことに、それを高利で貸し付けて、利子を懐に入れていたようです。内部告発で管理人の職を解かれそうになった彼は一計を案じます。債務者の所に証文を持って回り、借金の利息をチャラにして恩を売るのです。こうして自分が解雇された時、迎え入れてくれる新しい会社回りを兼ねたのでした。如何にも生臭い話ですが、この先は、あり得ない展開に変わります。それを知った主人が管理人の「抜け目ないやり方」を褒めたというのです。ここがイエスさまのワープです。ここからは信仰の話なのです。

⒊ 《富も使いよう》 この世の終わり、人生の終わりには、金など何の役にも立ちません。その時のために今から「不義の富」で「友達を作れ」と仰るのです。「不義の富」は「マモン/この世の富」、「友達/フィロス」は「愛される、愛すべき、親しい」という意味です。この世の富はこの世でしか価値がありません。しかし、この世では未だ使い道があるのです。それを活用して「愛のある関係を作れ」「愛すべき者たちを守れ」と言うのです。ディケンズの『クリスマス・キャロル』は守銭奴スクルージが「過去は変えられぬが、未来は変えられる」と回心して、富を用いて多くの人の「善き友人」と成る物語でした。




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# by tuberosa-angel | 2017-10-25 00:42 | 教会週報より転載

あなたは光になってます

〝 あなたは光になってます 〟   エフェソ 5:6~14

聖句「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(5:8)

1.《光の子》 教会附属幼稚園・保育園には「光」を園名にしている所が数多くあります。「光の子」というメッセージは、「恵み」「小羊」に比べると、教会側と家族側の間の乖離はありません。どの親御さんにとっても、我が子は光のような輝かしい存在です。しかし、成長と共に、その光が翳って行くように感じるのです。本当は、私たちが光を見ようとしていないからではないでしょうか。

2.《照らす》 幼い我が子は光そのものです。しかし、どの子も光輝いているのです。私たちが自分の子の輝く瞬間だけを追い求めている限り、その輝きに気付きません。誰もが互いに照らし合っているのです。教会では古来、キリストを恒星に、私たちを惑星に譬えて来ました。私たちは自ら輝くものではなく、御光を反射するのです。照らされた者それ自身もまた、光となるのです。13節の「明らかにする/ファネロオー」も、14節の「照らす/エピファウスコー」(「エピファネア」の類語)も「顕現、顕われ」を意味する語です。その単語の中には「ファノス/松明」があります。闇を明るく照らす灯火です。

⒊ 《光の業》 私たちはキリストの光に照らされて輝いています。自分を輝かせるために空しく光っているのではありません。光ることで誰かを照らすことが出来るのです。私たちは「以前には暗闇でした」が、今も深い闇を抱えているはずです。いつも隅々まで御光に照らされることは出来ません。御光に照らされぬ半面(ダークサイド)が常に生じてしまうのです。しかし、そんな陽光の当たらない暗黒面にも、無数の星が輝いているのです。私たちも、その星の1つです。私たちは独りでは「光の子」には成れません。闇を抱える一人であるとしても、私たちは互いに照らし合う時「光の子ら」に成るのです。
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# by tuberosa-angel | 2017-10-10 12:48 | 教会週報より転載

ほんとうに生きている道

   〝 ほんとうに生きている道 〟    ヨハネ 14:1~14

聖句「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(14:6)

1.《道を尋ねる》 私は方向音痴なので、知らない所に行く時には、前日に入念な準備をします。その癖、迷った時に素直に道を尋ねることをしませんでした。道に迷う男性が他人に道を尋ねないのは、自分が無能だと思われることを恐れているからだという研究結果があります。英国の保険会社の調査によると、迷った男性が誰にも道を訊かずに、当ても無く自動車を走らせる距離は、年平均444キロに達するそうです。それこそ「迷走」ですね。

2.《脱システム》 英国の探検家、トリスタン・グーリーによると、女性に比べて男性が道を尋ねない理由は、自分たちが作ったシステム(方位、地図)に固執していて、機能しなくなっても拘泥しているからだそうです。その点、女性の方がシステムから自由で、目的のためには、利用可能な手段を全て駆使することが出来るのです。勿論、性差による分類は相対的なものです。性差に関係なく、今や私たちはシステムに雁字搦めにされて、身動きが取れなくなっているのです。システムそのものが悪いとは言いません。しかし、システムが機能しなくなった時に、その拘りを離れて、謙虚に道を尋ねる必要があると思います。

⒊《踏まれる命》 教会は道を尋ねる場所、また問われる場所でもあります。ペトロもトマスも、イエスさまに「主よ、どこへ行かれるのですか」と尋ねています。それに対して、主は「私は道である」と答えられます。福岡のバプテスト教会の牧師(幼稚園長)が、園児から「じゃあ、イエスさま踏まれちゃうんだね」と反応された衝撃を書いて居られました。遠藤周作の小説『沈黙』のクライマックスで、踏絵に足を掛けたロドリゴに「踏むがいい」と囁く主の御声を思い出します。それは「棄教」ではありません。私の足がキリストを踏み付けにしている、その認識から始まる信仰もあるのではないでしょうか。 





 
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# by tuberosa-angel | 2017-10-03 14:08 | 教会週報より転載

願えば与えられるのか

〝 願えば与えられるのか 〟     ヤコブ 1:2~8

聖句「…知恵の欠けている人がいれば、誰にでも惜しみなく咎め立てしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」(1:5)

1.《女心と秋の空?》 日本列島が移動性高気圧に覆われる秋は、空気が澄み渡り、上空の雲まで見える反面、お天気が変わり易くもあります。それを女性の移り気に掛けて「女心と秋の空」と言いますが、この表現が生まれたのは大正デモクラシー以後です。封建時代には、女性の意思表示、人格や権利は認められていなかったので、むしろ「男心と秋の空」と言われていたのです。色恋沙汰における男の身勝手ぶりを揶揄する表現だったのです。

2.《引き裂かれた魂》 6節に「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています」とあります。迫害、病気、貧困などの試練に遭う時、私たちの心も揺れ動きます。そこで信仰が試され、「忍耐/逃げ出さずに留まること」が生ずるとされています。試練に遭えば「海の波」のように揺れ動くのは、信者も未信者も同じ。洗礼を受けた信徒も動揺し疑うのです。この疑う者が信ずる者へと変えられて行く、そのプロセスを信仰と言います。祈り続ける中で、神に向き合い、「我が心定まれり」と成るのです。8節の「心が定まらず」は「二心の者」と訳されますが、私なら「魂が引き裂かれて」と訳します。

3.《神のプレゼント》 降り掛かる試練に対して「逃げ出さずに留まる」力を、「知恵/ソフィア」と言います。頭の良いことではなく、人生や歴史を神の御計画の中で見通すことの出来る聖霊の賜物です。つまり、私たちの思いが及ばぬ程の、高くて大きな神の御思い(イザヤ書55章8~13節)に思いを馳せて、触れること、永遠を思う心(コヘレトの言葉3章11節)です。それは、私たちが誰かのことを思い遣るのに似ています。その人の本当の心は窺い知れませんが、その人に心を向け続けていれば、その心に達する時が来るのです。願うならば、神は、私たちの想像も出来ないプレゼントを与えて下さいます。 
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# by tuberosa-angel | 2017-09-26 13:02 | 教会週報より転載